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奇妙な感覚

いつも散歩に行く公園に競艇場がある。競艇というと競輪や競馬の仲間と思われるだろうか。ボートレースと言えばいいのだろうか。ボートレースでも競艇と同じかもしれない。正確にはレガッタと言えばいいのかな。要するにモーターボートでなくて手で漕いで競争する競技のこと。競漕と言えば分かってもらえるだろう。

競漕場の両側に散歩道があっていつもこの道を歩いている。散歩道と言ってもレースのあるときや練習をしている時は、コーチや応援の人達が、自転車に乗ってメガホンでかけ声を掛けながらこの道を走るのでのんびり歩いてはいられないのだけれど。

日曜日にこの道を通った時にあおさぎに出会った。この町ではときどきあおさぎに出会う。大抵は水の中にじっと立って何かを見張っている。この日は道の脇の芝生とその向こう側の薮との境のところで、獲物をうかがうように首を縮めてそろりそろりと歩いていた。猫が雀を狙っているときのような感じだった。

あおさぎを通り越してしばらく歩いた左側に開けた場所が出て来た。道の右側は競漕場になっていて右手後方から陽が差している。左側は道に平行して帯のようになった芝生があり、芝生の向こう側はずっと林と薮が続いているはずであるのだが、ここは林や薮が切れて芝生が奥のほうまで続き向こうまで見えるようになっている。この道は何度も歩いたことがあるのに今までこのように開けた場所があることに気が付かなかった。どうして今まで気が付かなかったのだろう。右側の競漕場の方が気になって左側に注意を向けていなかったのだろうか。この時感じた感覚は空間のゆがみに入り込んでしまったような、あるいは、四次元の裂け目に落ち込んでしまったような奇妙な感覚であった。

既視感と言われる感覚がある。この既視感というものは初めて見たものを前に見たことがあると感じることだが、心理学的に説明できるものだそうである。競漕場の横を歩いていて経験したことは、この既視感とは逆の感覚で、今まで何度も通って見たはずのものを、初めて見たものと感じたのである。こういう感覚を既視感のように一語で表わす言葉はあるのだろうか。


それともあれは今まで何度も見たものでなく、あの日、本当に初めて見たものなのだろうか。あの時から僕はパラレル・ワールドのもう一つの別の世界にまぎれ込んでしまったのであろうか。ひょっとしたら、あの林や薮がなくなった開けた場所をどんどん奥の方に進んでいったら、ドラえもんの住む別の未来に行けたのかも知れない。そこは「三丁目の夕日」の未来と同じ未来だったかもしれない。こんなことをパソコンに向かって書いている僕はもうすでにこの文章を読むかもしれないあなたとは別の世界にいるのかもしれない。

この坂を降りたところが三丁目 ポチと一緒に夕日見た坂 (新井蜜)

つりがね草

いつも散歩に行く公園の道の両側の林の中につりがね草が群生しているところがあった。つぼみは出ているがまだ開いていない状態だった。この花に限らず開ききらないつぼみのときが好きだ。

「鬼も十八、番茶も出端」という言葉が浮かんで来たのだけれど、公園のつりがね草は十八でなく十六くらいの感じだった。「鬼も十八、番茶も出端」を辞書で調べてみたら、「鬼でも年頃になれば美しく見え、……」とあるから、「年頃」の魅力を言っているのであって、開ききらない花の魅力を言っている訳ではないのだ。ちょっと混同して頭に入っていたようだ。

ぬばたまのブラック・ホール わが愛もわが悲しみも吸い込む君よ (新井蜜)

悲惨な出来事 本編

前回書いた「悲惨な出来事」では脱線ばかりで悲惨な出来事を書けなかったが、今回はきちんと悲惨な出来事を書くつもりだ。

土曜日の朝の散歩の続きで公園に行った。この公園はとても大きな公園で、外周を歩くと二時間以上掛かるのではないかと思う。町の近くにこんなに大きな公園があるのは幸せなことである。

朝のことでもあり風が吹いていて寒かったので人は少なかった。ときどきジョギングをする人に追い抜かれたり、すれ違ったりする。しばらく歩いて行くと20人くらいの男女の団体とすれ違った。多くは60歳以上と思われる高齢者で、しかもリーダーか指導者らしい人が引率しているような感じだった。何の団体だろうか?何人かはナップサックを背負っていた。

団体とすれ違ったあと左手に広い芝生のあるところに出たが、芝生の上で一人の男がゴルフボールを打っていた。ゴルフなんかやっていいのかと思ったが、他に誰もいないし人のいない方に向けて打つ分には問題ないだろう。

ゴルフの男を追い抜いたあと再び団体と出会った。やはり20人くらいで高齢者が多かったが中に30代から40代と思われる人も数人混じっていた。この団体が先ほどの団体と違うところは、この人達は皆、両手にスキーのスティックのようなものを持ってそれを交互に突きながら歩いていることである。何をしているのだろうか。スキーの練習なのだろうか、それとも体力増強の手段としてやっているのだろうか。この団体にも指導者らしき男がついていた。

この二つの団体とジョギング組の他に何組かのカップルが犬を連れて歩いていた。犬は飼い主がテニスボールや棒切れを投げると駆けて行きくわえて戻ってくる遊びが好きなようで、喜んで遊んでおり飼い主に早く投げろというようにせがんでいた。

乗馬をしているカップルにも出会った。だく足というのだと思うが、歩行ではなくそうかと言って早馬のように駆けるのでもない馬のジョギングのような走り方で走っていた。

乗馬のカップルが行き過ぎると大きな池が見えてきた。池の表面には氷が張っている。夫婦と子供二人の家族が池のそばで遊んでいた。子供のうち大きい方の中学生くらいに見える男の子が氷の厚さを確かめるように片足を池の氷に載せ力を掛けていたと思ったら、氷が割れて男の子は左足を池の中にズブンと踏み込んでしまった。膝の上まで踏み込んだがそこで踏みとどまり濡れたのは片足だけで済んだようで、父親に引っぱり上げてもらっていた。片足とは言えズボンは膝上まで、靴もずぶ濡れで、風が吹いているこの寒い日には悲惨なことであろうと思った。こういうことがあると親は他人の目を意識してか失敗をした子供をしかるものであるが、この親子の場合、父親も母親も片足をずぶ濡れにした子供をしかる様子はなかった。子供の方も照れくさそうな顔はしていたがあわてるでもなし普通の態度であった。

これがこの町で僕が出会った悲惨な出来事である。

防寒のコートの下の青色の きみの乳房を包むTシャツ (新井蜜)

昼下がりの情事

前の記事で書いた「昼下がりの情事」についての友人の経験談は映画の話をすることが目的ではなかった。高校生がその内容はどのようなものであれ映画を見ようとして補導されるということが今時あるのだろうか。考えにくいことだ。そのことについて考えてみたかったのだ。

一昔前は世の中に一定の守るべき価値観のようなものがあった。もちろん、その価値観など無視する人もいたが、無視する人たちは世間の価値観に反逆しているということに誇りを持っていた。そこまでの確信犯でない場合でも、守るべき価値観から逸れているということに罪悪感を持ちながら悪さをしていた。それを認めようが反抗しようが世の中の一定の価値観の存在というものは意識していたように思う。

今はその世の中の価値観というものが一定でなく、一つどころか無数に存在するようになった世の中だと思う。無数にあるということは、つまり、いわゆる常識はなくなったということであり、絶対はなくなり、全てが相対的になったということだ。ところが世の中にはその事実に気が付いている人もいれば、気が付いていない人もいる。気が付いていない人は、自分の価値観が世の中の価値観だと誤解しているのだ。

このような変化はいつ起こったことなのだろうか。僕には分からないが、少しずつ徐々に変化してきたのだろう。

枡野浩一さんが書いているように僕たちは「三丁目の夕日」の未来とは別の未来に生きているのだ。

狼になんてなれない分かってる吠えるのくらい好きにやらせて (新井蜜)

悲惨な出来事

この町で起こった悲惨な出来事を題材にした小説を書きたいという願望があり悲惨な出来事を探していた。今日、昼前に悲惨な出来事に出会ったのでそのことを書いてみようと思う。

本題に入る前に、「出来事」という漢字三つの表記で思い出すことがあるのでその話を先に書くことにする。それは「避暑地の出来事」という古い映画のことである。この映画は見たことがないのだが、“夏の日の恋”というテーマソングはよく聴いたことがある。「避暑地の出来事」の「出来事」というのは僕の想像では、避暑地のことでもあるし情事なのだろうと思う。「避暑地」については今までずっと南仏の地中海に面した町を想像していた。よく考えてみると南仏の夏は暑いだろうから避暑地には良くないはずだと思いGoogleで調べたところ(最近ググるという言葉が動詞として定着しつつあるようだ)、アメリカのメイン州が舞台のようである。メイン州と言えばアメリカの東北部だから避暑には適している所なのだろう。

脱線ついでにGoogle情報によると「避暑地の出来事」の主演女優はサンドラ・ディーという人である。僕はこの人と名前が似ているサンディ・デニスという女優さんが好きだ。正式な名前はSandra Dale Dennisだからサンドラ・ディーと間違え易い名前だ。サンディ・デニスは有名な映画では「バージニア・ウルフなんかこわくない」に出ていた。いわゆる美人ではなくちょっと頼りないような女優だが、なぜか好きなのだ。

もう一つ脱線して「避暑地の出来事」で想像した「情事」から連想したことがある。これも映画の話だ。以前、友人が『学校をさぼって「昼下がりの情事」という映画を見に行って補導されそうになった』と話していたのを聞いたことがある。「昼下がりの情事」というタイトルからアダルト映画を見ようとしていると思われたらしいのだ。「昼下がりの情事」というのはオードリー・ヘップバーンの主演映画だからポルノであるはずはないのだ。(「真昼の情事」というアダルトものはあるようだが。)古い映画だから友人は名画座かどこかで見たのだと思うがそれでも今の話ではなくずっと以前の話である。

脱線が長くなってしまったので悲惨な出来事の本編は別の記事で書くことにする。

棒切れをくわえて戻る ごほうびをくれると言ったあなたがいない (新井蜜)

「土曜日の朝」

「土曜日の朝ポチと散歩に出た僕は郊外の住宅地であるこの町に似合わない悲惨なできごとに出会った。」という書き出しの小説を書きたいと思っているのだが「この町に似合わない悲惨なできごと」ということがどんなことなのか思い当たらずに書き出せないでいる。書きたいと思いつつ悲惨な出来事が思いつかないということ自体が悲惨なことだと思いながら、ショッピング・センターの端にあるデパートの横を通り過ぎ、高速道路の下をくぐり、奇抜なデザインの会計事務所の建物のトンネルのような渡り廊下の下をくぐって向こう側に出た。林の中に散歩道がある。

前方から犬を連れた夫婦連れが腕を組んでやってくる。大きな黒い犬で鎖に繋がれていない。ポチが怖がるのではないかと思ったが、この黒い犬が近づくと、ポチも黒犬もお互いに匂いを嗅ぎ合っている。夫婦連れは犬達や僕のことは気にも止めずに何ごとか熱心に話しながら通り過ぎて行った。話の内容は聞き取れなかったのだが、驚いたのは大きなプロレスラーのような体つきをした男のほうが「枕詞が……」というようなことを言っていたことだ。ひょっとしたらこの夫婦は短歌が好きなのだろうか。それとも枕詞とは寝物語という意味だったのだろうか。

気持ちよく晴れていたが空気はとても冷たい朝なので急ぎ足で歩いていたのだが、だんだん身体が温まってきて熱くなってきたので手袋をはずした。手袋をはずししばらくすると冷たくなるので、また手袋をはめる。はずしたりはめたりを繰り返しながら住宅の並ぶ通りを歩いたがほとんど人に出会わない。休日の朝はゆっくり寝ている人が多いのだろうか。小さなホテルの前を通ると国旗が掲揚されていた。今日は何の日だろう。

ポチの見た夢は悪夢か青ざめた顔して水を飲んでいる朝 (新井蜜)

大漁旗掲げて帰る父ちゃんに手を振りポチと出迎える朝

大漁旗掲げて帰る父ちゃんに手を振りポチと出迎える朝 (新井蜜)

帰って来て

早く帰ってこいよ。

散歩

散歩に行ったんだ。

起きなさい

寝ていて起きないぞ

ポチ

今日からポチを飼い始めた。

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